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光明無量・寿命無量 (3/27)

佛さまは光明無量・寿命無量という。阿弥陀如来ばかりでない。佛といえば皆光明無量・寿命無量。苟も佛さまはどんな佛さまでも法身・報身・応身と法・報・応の三身を具えてお居でになる。如何なる佛も皆光明無量でなければ佛でない――、寿命無量でなければ佛でない。苟も諸佛の報身というものは、皆光明無量・寿命無量に定っている。そうしてみれば、阿弥陀如来は光明無量・寿命無量であるのは当り前のこと。外の諸佛は当り前だから別に光明無量の願・寿命無量の願というものは起されない、本願はなくとも皆光明無量・寿命無量。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

然るに阿弥陀如来が特別に光明無量の願・寿命無量の願を起した。妙なことじゃ。無用の願を起して居るようなもの。佛であれば光明無量・寿命無量であるのに、設ひ我佛を得たらんに、こういって光明無量でなければ佛にならん、寿命無量でなければ正覚を取らん。何でそんな無用のことを力んで云われたか。そういう考をなぜ起されたか。こういうところに問題があるのであろうと思うのであります。諸佛の光明無量・寿命無量というのは、ただ諸佛自身の自覚自証だけ、自分御自身が光明無量・寿命無量それだけのこと。阿弥陀如来の光明無量・寿命無量ということは、阿弥陀如来の光明無量ならんとし、寿命無量ならんとする時に、念ずる我々も亦阿弥陀如来と同じく光明無量・寿命無量になる。其処が違う。それを示す本願である。