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念佛の道理 (3/24)

一念発起平生業成というのは、ただ何もない空中の一念発起というのでないのでありまして、行体について一念発起平生業成の道理を戴く。それをはっきりしないものだから、いや『御文』の御化導はいろいろあるの、いや開山聖人と蓮如上人の境地が違うの、いやどうのこうのと、さまざまなことを云うけれども、念佛を披いて置いて、ただ教化というものだけみている。それだものだからさまざまの御教化がある。こういうのだけれども、念佛の行体についていろいろみているのである。だからして結帰するところは、一念発起平生業成ということであります。
(真宗の眼目第五講『至心信楽は欲生に始まる』より)

念佛の道理をどういう言葉で解釈しておろうと、一念発起平生業成のそれより外ないのであります。だからしてそのことを浄土真宗は、念佛を体として御化導になる。そういうことをずっとお話しているのであります。だからもう念佛の外に何もない。ただ念佛だけである。だからして阿弥陀如来の因位永劫の修行というものも、亦御本願というものも――五劫思惟の本願というものも、ただ念佛の外にない。念佛の外にないと云ったとて、その時は、念佛はただ願という形のものである。願としての念佛はある。五劫永劫の時にはただ願としての念佛はある。だからして南無阿弥陀佛という言葉はなかった。それだからして本願成就して南無阿弥陀佛の願が行となって、即ち言葉となってその行の中に願が早ちゃんと成就して、それで本願成就の六字のみ名となる。その行の中にあるところの願というのは何であるかと云えば、至心・信楽・欲生が願である。だからしてみ名の中心の魂は何時も欲生我国である。