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一人に引受けて (3/23)

一体阿弥陀如来の御本願というものは十方三世の諸仏が皆さんがなさるべきことを法蔵菩薩が、たった一人に引受けて御修行なされた。我々各自各自に荷うて行かねばならぬところの業の問題を、法蔵菩薩がたった一人に引受けて、そうして御修行なされた。そういう御本願であるから聖人はその御本願をたった一人に引受けての言葉というものは皆感動する。だからして唯圓大徳も亦聖人の如くたった一人に引受けた。そして『歎異抄』を書いた。『歎異抄』が今日我々に感動を与えるのも、聖人の御教訓を唯圓大徳たった一人自分一人に引受けて書かれたからである。だから『歎異抄』を読む人は『歎異抄』の御言葉というものを皆各自各自一人一人に引受けて、聴聞することが出来るようになっている。それが有難い。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

大勢の人と一緒に仏法を聴いているのであるけれども、その仏法を聴く者が大勢の人の中に自分一人に引受けて聴く。皆一人一人引受けて聴く。それは人間が百人居っても構わぬ。皆引受けて居る。大勢居るから邪魔になる、そういうことはありません。自分一人に引受けないと大勢の人が邪魔になる。自分一人に引受けると大勢人が居っても邪魔にならんばかりでなく、大勢の人が居れば居る程有難い。自分の心が曲っていると一人では淋しい、大勢寄ると喧しい。家のお父さんは我々が行くと喧しいと云われる。それならお父さんは一人で居るかというとそうでない、大勢と居る。一人で居れば淋しい。一人でも居れないし大勢でも居れない。そういうことでは、それはお念仏が分らぬ人。お念仏は一人で居っても淋しくない。一人で居れば静かでよい。大勢居れば賑かでよい。ところが人間の了見が間違っているというと我執が募って居る。大勢寄るとうるさくてたまらん。一人で居ると淋しくてたまらん。一人で居れば一人で居って書物を読む。一人で居って書物を読む人は大勢居っても読む。本当に心が静かであれば、自分の側に子供が幾ら噪いでもやはり静かだ。賑かということと静かということは矛盾撞着しない。賑かなが静かだ、静かなが即ち賑かな。淋しいということと喧しいということとは矛盾撞着する。賑かということと静かということは是は一如である。一如であり一体である。だから賑かな世界は静かであります。静かな世界は賑かな世界であります。一人で居れば仏とともにある。大勢あれば如来の行者同行となっている。一人であれば親様と一緒にある。だからして一人で居れば静かである。大勢居れば賑かである。大勢居ってもよし一人で居ってもよし、大勢居れば尚よし、一人で居れば一層よし。