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引受ける (3/22)

これは悪い話であるがそれを善い方にしたらどうか。悪いことを引受けて腹を立てる。よい方を引受けたら喜ぶ。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、」同じ一人に引受ける。

 さればそくばくの業をもちける身にてあり
 けるを、たすけんとおぼしめしたちける本
 願のかたじけなさよと、御述懐さふらひし
 ことを、いままた案ずるに、善導の、自身
 はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこの
 かた、つねにしづみつねに流転して、出離
 の縁あることなき身としれという金言に、
 すこしもたがはせおはしまさず。さればか
 たじけなくも、わが御身にひきかけて、わ
 れらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、
 如来の御恩のたかきことをもしらずして、
 まよへるを、おもひしらせんがためにてさ
 ふらひけり。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

「わが御身にひきかけて」とある。ひきかけてということは引受けると同じこと。引受けると書いてあると都合がよい。けれども今また案ずるに、開山の弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり。唯圓房も亦その向うを張って、今また案ずるに、昔開山聖人の話を聴いて、現在この御述懐の言葉に就いて自分が案じてみると、弥陀五劫思惟の願を一人に受けて御喜びになった。その聖人の如来の御本願を御自身一人に引受けて御述懐になった御言葉を、亦今自分一人に引受けて聴聞する。聖人は別に人に向って仰しゃるのでない。自分一人に引受けて自分の自督を述べて居られる。御前等に聞かせるぞと人に聞かしたのでない。自分一人に云って居られる。蔭で聴いた、そうではありません。人の前で仰しゃった。人の前で仰しゃったけれども、我等に聞かせるぞ、そう仰しゃったのでない。有り難いことで、どうもこの弥陀五劫思惟の願をよくよく案じてみると、思案の頂上といえば、弥陀の五劫思惟の願に過ぎたるはなしということがある。弥陀五劫の思案というものを今度は自分一人で引受けてみる。よくよく案ずれば、よくよく思案すれば、如来の御思案を自分で思案なされる。その聖人の御述懐は必ずしも唯圓大徳一人に仰しゃったのではあるまい。皆大勢寄るといえば何か御勤めでもなさる時とか、或は御飯を御上りになる時とかお茶でも飲んで居られたのであろう。そうして「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば・・・」と話された。そういう工合にしてよく唯圓房もその仲間にはいって聴聞した。その五人か七人かの人と何時も一緒に居って話した、それを今また案ずるに、自分一人に引受けて案じてみる。そうして我我が自分の罪の深きことも知らず、如来の御恩の高きことをも知らずして、そうして善だの悪だのということばかり云って物知り顔をして居るのを聖人が戒め下されて、我等自分一人を導いて下さるのであるぞ。こういって唯圓大徳も自分一人に引受けて述懐を述べて居られる。