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受 (3/21)

これについて『成唯識論』という書物がある。その書物を読んで行くとだんだん心の働きを書いて「受ける」という働きがある。受けるという働きに就いては、受けるということは重大な心の働きであると昔から考えられているものと見えて、印度の仏教の学問の上に於ては、受けるという働きに就いていろいろの説がある。小乗二十部と申しまして小乗教に二十部の学派が分れて、受けるということに就いていろいろの説があって争うているのであります。『成唯識論』は玄弉三蔵が天親菩薩の『唯識三十頌』という書物を解釈されましたものでありますが、その『成唯識論』を今度は玄弉三蔵の弟子の慈恩大師が『述記』という註釈書を書いて解釈された。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

それをみるというとこうある、例えばここに六十人位居る。この六十人の人の前に私が立って、御前の顔は奴さんのようだ。こう仮りに云ったとする、そうするとこの六十人の中で五十九人迄は黙っている。それは誰のことを云うか、奴さんが何処かにいるだろう。俺はまさか奴さんではあるまい、こう思う。そうしたらたった一人がツンと起って、そもそも君はこの大勢の中で自分を侮辱した。御前は俺のことを、お前の顔は奴さんだと云った。その人は本当の奴さんだものだから、奴さんだということを人は分るまいと思ってよい気持で座って居った。ところがちゃんとどういう拍子か俺の姿を見抜いたものと見えて、奴さんに似ている、こう云って俺を侮辱した。人に分らぬように、よい気持で来て澄まして座って居った。それを見抜いてお前の顔はやっこさんに似ているぞと大勢の人の中で人を侮辱するとは実に不都合千万だ、この恨は何とかして晴らさねばならんぞと腹を立てた。話は之だけでありますがこれは何を表わす。これは受ということを表わす。どういうことかというと、受とは引受けること。その言葉を受取ってそれを自分に引受けた。云う人は何も別にどうということはない。ただそう云うただけ。それを六十人の中のたった一人が引受けた。外の人は誰も引受けない、誰のことだろうと聞いて居った。たった一人その人間が六十人を代表して自分一人に引受けた。俺を侮辱していると云う。之を受という。