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正定業 (3/18)

正定の定とはさだまるということ。けれども我々は正定業を、業をさだめると読んでいる人が沢山ないか。正定とはただしくさだまるなり。さだめるのは邪定なり。邪定とは邪にさだめるなり、正定とは正しくさだまるなり。さだまるのが正定、さだめるのが邪定。さだめるのは人間が勝手にきめる。さだまるのは如来の方より自然法爾にきめて下さる。自分からきめる者は人間自分の我が邪に定める。法の上に定まらんからまた不定と云う。さだめるはさだまらざるなり。きめればきめる程愈々きまらない。それを邪定、不定と云う。邪定は即ち不定なり。それだからして如来の力で定めて戴く。往生は如来の方より治定せしめたまう。それを正定と云う。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

この如来より定めたまうと云う時に、そこに時節というものがある。自分が定め自分が決めるというものには時節というものはない。時節のないところに本当のものはない。今更に時節ということを一念というは信楽開発の時尅の極促。信心が開けて来るその時節が極めて速い。幾ら早くても時節が速いということはただ徒らに早いのでない。その速いということは、速く定まるということは、それには容易ならん背景がある。本当に何度も苦労した人が、本当に何度も苦労して初めて速いことが分る。苦労しない人に速いことは分らぬ。本当に心の中に苦労した苦労人にして初めて、ああこういう有り難いことじゃということがふと一念、一念に三大阿僧祇劫を飛び超える。一刹那に三大阿僧祇の劫を、不可思議兆載永劫をたった信ずる一念に飛び超えさして貰う。一念というは信楽開発の時節の極促を彰わす。その裏には何があるか、即ち果遂の誓がある。果遂の誓ということは、如来の因位永劫の御苦労ということを念ずるのが果遂の誓である。果遂の誓を念ずるということに依って初めて私共は、一方には非常に深い悲しみと又同時にそこに大いなる喜びとが全く合致している。