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欲生我国の具体化 (3/17)

願というものは大事なものだ。信が清浄であるか不浄であるか信を決定するところの自覚原理は願である。だから願清浄ならば信清浄なり。願不浄ならば信不浄なり。願自力ならば信自力なり。願他力なるが故に信初めて他力なり。だから仏法の学問は願の学問である。願というものに眼を開いて初めて行というものがある。願をのけて行ばかりみているからして、俺はこんな立派な行をしたと云うことになる。その行の後にある願がどんな願か、それの自覚原理の願というものをみればよい。
(真宗の眼目より、昨日の続き。一部既出、一部省略)

吾々信心為本という。この信心為本ということは御開山様が教えて下されたがそれは何であるか。こういえば願をみよ。信心信心と云ってまた信心ばかりみているものだから、又信心信心と云って行ばかりみている。大概の人は信心信心といって行ばかりみている。信心為本ということは願をみよということ。信心為本は信をみよということでない。ただ念仏為本、念仏為本と云っても、ただ行だけみているものだからして、信心為本と仰せられるのはその願を見よ。形のある行だけみて居っても分らぬ。形を超えて形を見直す。これが信心為本。形だけみていると醜いものもみなれると醜い姿は分らなくなる。何時でも自分の醜い姿にみなれるというと、俺も結構なものじゃな、こう思う。行だけをみて居るというと、それがみ馴れれば馴れてしまう。願というものを見る時に新しい姿を見直す。見直すということは内なる願に目覚めること。願を通して行を見る。願を通して行を見るという立場を、信心為本と仰せられた。そうでなしにただ信心為本と云えば何のことやら分らぬ。信の一念、何やら分らぬ。信の一念ということ程分らぬことはない。信の一念ということはその如来の廻向というものに目覚める時に、即ち欲生我国ということは、如来が我を喚び給う、我我諸有の衆生を喚びたまうところの如来の言葉である。喚び声の具体的なものは何処にあるかといえば南無阿弥陀仏。これこそは欲生我国の具体化である。南無阿弥陀仏が欲生我国の具体化ということを知るのを、それを正定業と云う。