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他力招喚 (3/15)

この欲生我国を人間の思想だと考えている人がある。欲生我国は如来招喚の言葉である。具体的事実としての欲生我国を今更に見出したのが、それが如来が諸有の衆生を招喚したまう勅命であり、具体的現行即ち歴史的事実、則ち欲生我国に於て初めて歴史的事実として具体的なものを見出した。その具体的なものは何であるか、南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏の中に欲生我国を見出した。我々は久しい間南無阿弥陀仏をのけものにして欲生我国を考えて居った。然るに我が聖人は南無阿弥陀仏に於て初めて欲生我国の如来の招喚を見出した。それを知らしめて下さるのは本願成就の文の「至心に廻向したまへり」ということである。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

至心廻向の四字は南無阿弥陀仏の中に、南無阿弥陀仏に於て欲生があるぞ。南無阿弥陀仏は欲生の具体的現行であるぞ。南無阿弥陀仏の外に欲生があるのでないぞと云うことであります。然るに人々は、南無阿弥陀仏の外に欲生の祈願心があると考える。称名念仏行の外にもう一つ願生心が必要であるぞ。こう考えて来たものであるからして、そういう欲生我国の本願の言葉を抽象的の願生浄土の心と考えた。抽象的なものは自力作為の心である。自力作為は抽象的である。他力招喚は具体的である。抽象的なる作為の心を自力と云い具体的なる招喚の勅命を他力と云う。南無阿弥陀仏に於て欲生我国を見出したのは即ち他力自然の欲生である。南無阿弥陀仏をのけものにして、大行をのけものにして欲生我国を作為したのは抽象的の欲生我国である。自力のはからいの願心を以て如来の名を称えると云うと、称名行が又自力作為の行となる。名号そのものは元より自力作為の行ではない。けれども自力の願心を以て称えれば又自力の行ということが出来る。かくの如く自力作為の願心の上には念仏と往生とは二つになる。念仏往生ということは念仏即ち往生ということである。念仏する行の外に往生の行はない。念仏することが即ち往生することなり。念仏をさせて戴くということが往生をさせて戴くということである。念仏させて戴いたなと感ずるなら直に決定往生の行が成就するのである。