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信の一念 (3/14)

で、私共は時と云う、時節到来と云う、信の一念は時節である。「夫れ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り、一念とは斯れ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。」信の一念というは時節の一念である。信楽開発の時節の極促を顕わす。ああいう言葉がありますが、あの時節という言葉は何を顕わすか。親鸞聖人があの時節という言葉を本当に体験なされたのは恐らくは第二十の願の果遂の誓を発見せられたことが、時節ということを見出されたことであります。ああいう御釋というものは、今申しますようにこれはただ雑行を捨てて本願に帰すというようなそんなところへ出て来ないのであります。雑行を捨てて本願に帰するということは、蛇が皮を脱いだようなもので、新しい皮が出来たから古い皮を捨てた。着物が小さくなったからそれを脱ぎ捨てて大きい着物を着た。大きい着物が出来たから小さい着物は窮屈だから脱ぎ捨てたというものでありましょうか。そんなようなことでは本当の信の一念ということはない。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

信の一念は果遂の誓というものを見出した時に、初めて見出す。第二十願の果遂の誓というものを見出さない者には信の一念は分らぬ。宜なるかな信の一念というものは、唯一人我が開山聖人によって初めて見出されたのであって、開山聖人以前には誰も知らなかった。法然上人の門侶三百八十余人の中一人も信の一念ということを見出さぬ、是は何であるか。果遂の誓ということを知らないからである。何で信の一念ということを仰しゃった。異訳の経典に據ったに違いないけれどもその異訳の経典を見出したのは何に依って見出したかというと、果遂の誓ということから教えられた。異訳の経典は総体に間違だ、こう云っている中に、異訳の経典又正しい、こういうことを見出したということは、何が見出さしめたかと云えば、それを見出さしめたところの自証の原理は何処にあるかと云ってみると、果遂の誓。その果遂の誓を見出したということは即ち本当の欲生我国の声を初めて聴いた。即ち如来が諸有の衆生を招喚したまうところの具体的呼び声を聴いた。声というものが初めて具体的である。本当の言葉が具体的のものである。我々は言葉を抽象して思想というものを作る。思想は抽象的のものである。言葉のみが具体的のものである。その具体的な言葉を捨てて徒らに抽象的思想を尊重して行く。そうしてその思想のみを尊重して具体的言葉を卑しめる。言葉は不完全だという。言葉が不完全であるのでない。自分の言葉が不完全なのである。思想を本にして言葉は末のものだと考えているところの言葉が不完全な言葉でありまして、言葉そのものが根源であって、言葉自身の反省に初めて思想があるのである。思想が根源で言葉が末であるというのは本末転倒しているのであります。