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果遂の誓 (3/13)

それは兎も角としまして二十願の果遂の誓というものは、親鸞聖人が『化身土巻』にお述べになりました。その果遂の誓ということに就いてもっとお話をしたいと思います。果遂の誓ということを知らん時には何か知らん自力を捨てて他力に帰するということは、自分の力で自力を捨て自分の力で他力に帰入するものと考えている。他力といってもその門を開くのは自力であろう、こんなように考える。まあ今日の学者はそう思っているのです。だから結局世には他力本願と云うけれども自力本願がなくては真の他力の門は開けんではないか。まあぼた餅は棚にある、落ちて来るのを待っている。鼠が騒いで猫が飛んで来たために牡丹餅が口の中へ棚から落ちて来た。そういうようなことを待っているのが他力だと、そういう工合に何時でも僥倖を待っているのである。このような人は真の他力本願を知らない愚か者であって、他力の廻向を得るには自力の努力によって他力の来る機会を作る。機会は自力本願である。こういうのが大概今の世の常識者の考えでありましょう。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

そういう学者は沢山ある。他力本願なら自分は分らぬから話を聴く必要がある。けれども自力本願なら聴かんでも分っている。分っていることを如何にも学問らしく云うものですから反って感激する。その感激するところに眉に唾をつけて聴く必要がある。
   定散自力の称名は
   果遂のちかひに帰してこそ
   おしへざれども自然に
   真如の門に転入する

   信心のひとにおとらじと
   疑心自力の行者も
   如来大悲の恩をしり
   称名念仏はげむべし
この二首の御和讃は一首は『浄土和讃』の「大経和讃」の中にあり、次の一首は『正像末和讃』の「疑惑和讃」の中にある。けれどもこの二首は前後相対応しているものと思う。こういうところに果遂の誓というものがある。だから第二十の願というのは、法に就いて云えば愈々如来広大の本願の力を現わす。機にあっては自力妄執の深くして徒らに仏に御苦労をかけているということを悲しまれるのであります。で、この果遂の誓というものは何を現わすかと云えば宿業を現わす。機にあっては宿業を現わし法にあっては宿因を現わす。機にあっては自己の宿業の罪深きことを知らしめ、法にあっては如来の宿因の深厚なることを感謝感激せしむるものが即ち果遂の誓であると、こう私は申したいのであります。