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道理と理論 (3/11)

聖道門は理論本位であるに対し、浄土門は理論を離れて道理に帰する、それを「義なきを義とす」と云う。理論を超えて道理がある。「念仏には、義なきをもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆへにと、」理論がないからと云って、道理までない訳はない。理論がなくなるとき本当の道理が顕われるのであります。理論は他を征伏し勝つところの武器である。理論のあるところには常に平地に波を起す。つまり理論の世界は争いの世界。理論は争いのないところへ争いを起す。道理が明らかになれば長い間の争いも止む。それが道理と理論或は論理と道理の違いであります。
(真宗の眼目より、既出)

此頃の人は論理と道理と混同している。現代には理論がある、けれども道理がない。我々は理論は知らないけれども道理を知らして貰う。道理は知らして貰うものであり理論というものは人間が作り上げるものである。理論というものは我の武器である。我が我を護るところの武器である。我が我を護り我が我を拡張してそうして他を征服する。外物を征服し他人を征服する。自我が他我を征服し又非我なる自然を征服する。学問というものは自然を征服する武器だと、こう人はみる。今の学問は自然を征服するところの武器である。学問のあるところにそこに平和は破れる。学問すると平和が破れる。息子が学問するというと両親に反抗する。是れ即ち今日の学問が論理の学問であるからであります。今日は学問をすればする程一家の平和が破れる、一家の平和が破れるような学問であるならば社会の平和が破れるような学問である。社会の平和が破れるような学問であるならば世界の平和が破れるような学問であろう。それを内にすれば自分の平和を破る学問であろう。自分の平和を破る学問であるならば、外にしては一家、一国更に世界の平和が破れるところの学問である。