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義なきを義とす (3/10)

総じて廻向とか転入とかいうことは、我々の心の方向の徹底的転換を決定して行くべき枢機をいうことであります。だから法の善巧摂化に就いては主として廻向と云い、機の進趣展開にあっては特に転入と云うのである。この二つは観点の相違であって体が二つあるのではないのであります。それ故に大行を廻向するとか信心を廻向するとか云う時には、行は法、信は機と云うけれども行信と云う時はやはり行も信も一体として、これを総べて法の位に就いて廻向という。随って信心廻向と云う時にも法の位に置き如来の真実と名号に就いて云う。
(真宗の眼目より、一部既出)

それに対し、廻心・一念発起と云う時には機の受得に就いて云う。信の一念というものは仏から貰うと云うが、仏から忽然として貰う、そんなふうに偶然に信の一念を戴くという秘事法門などというものは皆神秘主義の悪用であります。神秘主義必ずしも秘事法門ではない。けれども神秘主義というものを人間が悪用して、そうして何か私のさまざまのペテンの道具にした時に秘事法門というふうになる。神秘主義にも可なり深いものもある、こう思います。兎に角信心を戴くということは「義なきを義とす」というのだからして神秘主義と同様に思う人もある、けれども違う。義なきを義とすると云う。自力聖道の心を捨て、他力不思議に帰入する。帰入するところは忽然として得るという神秘主義でないのでありまして、獲るのは必ず得さして貰うのだ。得さして貰えばそこに内面的必然の道理がある。信心を与えて戴くに就いては信心には理論はない、けれども道理がある。「義なき」の義は理論論理。「義とす」という義は事実道理である。