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二重に難しい (3/9)

毎月発行する「寺報」に書くことや、年回法要の後でお話しすることとかについて、「あんたの言うことは難しい」といって下さる方がありました。

このサイトにある「随筆かも知れない」に書いたことを「お講さん」でお話しするようになって間もない頃にも同じようなことを言って下さった方で、文句であろうが苦言であろうが、何かしら「反応」があることはうれしいです。

気がつけば、最近では毎月2度の「お講」の後で「何か訊きたいことありませんか?」と尋ねることもなくなっています。それでも話したことについての感想であったり、普段思っていることであったり、何か話のある方は話しかけてきて下さいます。

お講さんにお参り下さる方はたいていがお年を召した方で、だからということもないのでしょうが、同じことを何度も話されたり、尋ねたりなさるのが一番多いような気がします。それがそれでよいと思える場合と、それでは困ると思う場合があります。

で、話しかけて下さることの内容が「質問」のようなことである場合、多くは少し前にすでに話したことが「答えのようなもの」になっています。これは実に示唆に富むことだと常々思っています。

そういえば、「問いから見つかるものは答えではなく問いである」というような趣旨のことを、以前リンクしていただいていた某サイトの管理人さんが言っておられたように記憶しています。

「問いの循環」とでもいえばいいのでしょうか、問いが問いを生むということも、それこそが大切だと思える場合と、それでは困ると思う場合があります。「答え」というのではないでしょうし、もちろん「結論」というのでもないのでしょうが、「帰すべきところはここだ」とわからせていただけないままに堂々巡りをするようなことでは、少なくとも私は困ります。

帰するべきところはすでに示されてあるわけで、そこの他に帰するべきところがないということも、この身というものを顧みれば、幾分なりともわからせていただけるわけです。

その帰すべきところに帰することになるような話を組み立てて、いわば「頭で話す」ようなことはしたくないし、していないつもりでいるのですが、実際がどうなのかということは、けれども、それは私にわかることなんでしょうか。ま、今日はとりとめのないままに、そんなふうなことを思っているわけです、はい。