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果遂の誓 (3/8)

だからして十九の願は、法然上人の禅坊の樞を叩いた時に解決したのである。けれども二十願というものは今まで知らなかった。知らなかったが、法然上人の教を受けた時に二十願というものがもう一つあるところの理由を今更に発見した。十九の願というものは前に分って居った。二十願というものは今まで知らなかった。一体十九願を捨てて十八願に入ることは、どうして出来るか。二十願という媒介者があって入る。十九願を捨てて二十願へ入った。十九願と十八願はどういう関係を有つか。二十願が果遂の誓という。大概の人は転向ということは、此を捨て、彼を取る。ただそう簡単に云っているけれども、誰がこれを捨てしめるか。誰がこれを取らしめるか。結婚にも媒介者がある。正しい結婚は媒介者がある。仮い自由結婚でも何かの形に於てやはり媒介者というものがなければ本当の結婚にはならない。そのように十九の願を捨てて十八願に入った。自力雑行を捨てて他力本願に帰入した。他力本願を信じた、他力本願の信心を獲ただけであっては他力廻向の信心を得たという証拠にならない。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

他力廻向の信心ということを証明するものは果遂の誓であります。第二十願が他力廻向の信ということを証明している。それを昨日は欲生我国がこれを証明すると申しましたのでありますが、もう一つ言葉を換えて言えば、第二十願がこれを証明する。二十願というものが正しく本当の欲生我国である。十九願にも欲生我国があり、二十願に欲生我国があり、第十八願にも欲生我国がある。けれども十九願の欲生我国はこれは本当の欲生我国ではない。仮初めのものに過ぎない。何かの為に過ぎない。二十願の欲生我国というものは十八願にの内にあって、又外にある。ただ徒らに外にあるのではなくして、内にあって外にある。だからして二十願は立体的である。立体的ということは自証である。自覚自証を有つ。ただ十九願と十八願だけでは平面的である。これを捨ててこれを取る。雑行を捨てて本願に帰す、雑行を捨てて本願に帰したというだけでは平面的である。雑行と本願というものは二つ別のものである。そこには因縁がないのであります。雑行を捨ててしまってそうして本願に帰した。こういうように考える。捨てると帰するとは一念同時であるということはそれでは証明が出来ない。だからして捨てたと思って居っても本当は捨てたのであろうか。又帰したと思っているけれども本当に帰したのであろうか。それが証拠がない。ただ何時の幾日に法然上人の教を受けたというだけの記録である。あの時に有り難かった、一生あの時の喜びは忘れられないというだけのことである。それが果たして如何なる意義を有つかということはよく分らない。しかしながら後から振り返ってみるというと、そこに果遂の誓があって、それが私を、比叡の山の中から腰の重いところの自分を鞭撻して、後から押し前から引いて、所謂後から発遣し前から招喚して、そうして法然上人が前まで引いて行ってくれたものである。ただ自分は自分で以て、法然上人のところへ行ったと思っているのだけれども、しかしながら自分の一足でも運び、その重い腰を立上らせたという、それが皆果遂の誓である。それを今まで知らなかった。自分の力で法然上人の所まで足を運んで行って、そうして自分の力で雑行を捨てて、自分の力で本願に帰したと思って居った。そうではなかった。雑行を捨てしめ本願に帰せしめて行く、それを見出すところの契機、それは即ち果遂の仕事であります。それを見出したところの本当の本願力廻向ということを現わすものが、第二十の願である。無論その根源は第十八願である。こういうことになるのであります。だからしてここに眼を開いた時に、この如来の本願は既に現在にある。一念発起は現在にある。何時でも一念発起の力は現在にある。こういうのであります。