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実践上の不審 (3/7)

例えば『歎異抄』の第九章「念仏まうしさふらへども云々」と唯圓大徳がお尋ねなされた。この時「親鸞もこの不審ありつるに」ありつるにということは、つるということは昔から現在でもある。恐らくは嘗て法然上人に対して問われたところの問であったに違いないと思われる。しかしその証拠はない。「念仏まうしさふらへども、勇躍歓喜のこころ、をろそかにさふらうこと、またいそぎ浄土へまひりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらんと、まうしいれてさふらひしかれば、親鸞もこの不審ありつるに、唯圓房おなじこころにてありけり。」これは昔我が聖人がやはりその通り法然上人にお尋ねになって居られたのであろう。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

法然上人にお尋ねになった時に、法然上人もこの不審ありつるに善信又同じ心にてありけりと仰せられた話かも知れない、その昔を思い出されたのである。親鸞もこの不審ありつるにということは、この不審をして御師匠法然上人に御問いをしたことがあった。けれどもこの不審というものは実践上の不審である。実践上の不審であるからして、道理から云えば既に自分は道理は分っている。道理は分っているけれどもしかしながらその実際の事実の上に於ては、今日尚その不審を有って、昔も今も同様である。やはり恐らくは我が開山聖人が、御師匠法然上人に向ってお問いになった時に、御師匠の法然上人も、この不審ありつるに、善信房同じ心にてありけりと法然上人が仰せられた。それを思い出して、親鸞もこの不審ありつるに唯圓房同じ心にてありけりと仰せられたのでないかと思う。こんなところは証拠がないとも云われるし、又証拠があるとも云われる。証拠があるとは私は云わない、云わないけれども云う必要もない程に、又明らかな証拠がある。