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迷は内にある (3/6)

それは勿論法然上人の教を受ける前にも自分の罪深いこと、生死無常ということを自覚しないではない。けれどもしかしながら上人の教を受けるまではそういうものは外にあるものだと思って居った。しかしながら法然上人の教を受けてから、それは内にあるものだということを初めて知らして貰った。今迄は罪は外にあるのだ。こう教えて貰った。迷は外にあると教えて貰った。又そういうものと思って居った。上人の教を受けて初めて迷は内にあるということを自分は感ずることが出来るようになった。そこに我が聖人は深き悩みを有っておいでになったのでありましょう。だからして我が聖人は、この三百八十余人の門侶の中に唯一人孤独の境地に居られたに違いない。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

そうして遂にかくのごとく深い問題は、仮い御師匠法然上人からも教を受けることは出来ない。それは自分の与えられたところの課題である。こればかりは人から教を受けることは出来ない。ただ法然上人のお姿を見れば煌々として、念仏の光が輝いている。しかしながら果してただそれだけであろうか。我が開山聖人は法然上人の外に輝いているところの智慧の光、大勢至菩薩の化身御師匠法然上人は智慧の光の御姿である。しかしながらその智慧の光というものは、内に何か光るところの根源がなければならぬ。ただ徒らに外に光っているのではあるまい。そういうことが一つの大きな問題であったに違いない。それは別に法然上人から教を受けることは出来ない。それは自分の問題である。自分が一人解決すべき問題である。それは一朝一夕に完了することは出来ない。議論ではない。これは行の道である。それは生活を以て時節を待つ外ない。長時間というものを待つべきものである。そこに修行がある。そこに本当の意味の行というものがあるであろう。で、聖人はそういうことに就いて一方には同門の人々と時々議論を闘わされたこともあった。即ち信行両坐のことも『御伝鈔』書いてあるし、或は信心諍論、信心の自力・他力ということを同門の人と議論をされたこともあった。ああいうことも『御伝鈔』の文章だけを見れば、如何にも角立ったようだけれども、何も滔々と角立って、口角泡を飛ばすような大諍論でもなかったであろう、何も外の人の面目を損するというような、人に恥をかかすというような、そんな大きなことが現われるということでもなかった。外の人はそんなことは忘れてしまっているというようなことであった。然るに我が聖人のみが、仮いほんのおどけ交りのように話をする、談笑をするというようなことでも、そういうようなことにも真面目に内観せられた。外の人はただ小田原会議で、その場限り、あれも一時これも一時というような思いであった。けれども我が開山聖人は、ほんの友達同志でただ道化で言い合いをしているというような事柄でもそのなかで聖人は真面目に考えて居られた。尤もそうだからといってそれを角立って語るということはないのでありまして、そういうことにも深い内観の眼を常に輝かしてお居でになったことのように思われるのであります。