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一念帰命 (3/3)

転入は一念にある。何かはっきりして居らんようだけれども、暫く開山聖人は時間を異にしているが如くお述べになっているようであります。しかしながら真実のことを云えば、転入は一念にあり。一念発起のところに転入がある。即ち転入と云うことは或は廻心ともいう。廻心はただ一度あるべし。一念帰命はただ一度である。その一念帰命のところにそこに十九の願を捨てて第十八願に帰入する。その第十八願の中に又二十願がある。二十願というものは第十八願の中にある。十九の願は第十八願の外にある。二十願は第十八願の中にある。内と外ということで云えばそうあるのでないか。十九の願二十の願は皆第十八の願の外にあると一般に考えられているようである。けれども果してそうであろうか。
(真宗の眼目より、一部既出)

三願転入の御文をみますと、「愚禿釋の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依りて、久しく萬行の諸善の仮門を出でて、永く雙樹林下の往生を離る。」十九の願は入る願でのうて出る願である。十九の願には出るということはあるけれども入るということはない。それには廻心というものがないからである。二十願は「善本・徳本の真門に廻入して、偏に難思往生の心を発しき、然るに今特に方便の真門を出でて選択の願海に転入せり。」二十願は入ると出ると二つある。第十八願は入るということがあって出るということがない。十九の願には宗師の勧化に依って十九の願へ入ったということはない。論主の解義を仰ぎ宗師の勧化に依って、久しく萬行諸善の仮門を出た。出たことだけあって、教に依って十九の願に入るということはない。教に依って十九の願は出たのである。何時入ったか。誰も入れたのでない。はや自分ひとりで入った。十九の願というのはひとりで入ったのであって、何時入ったということはない。つまり御開山さまにすると、既に御開山さまが幼くして御両親を亡われ、そうして九歳の春の時に生死無常の事実を深く悲嘆せられまして、そうして仏道に入られたのであります。その時ははや十九の願の中にあった。十九の願というのは何時入ったということはない。けれども若し強いて云えば、聖人九歳の時に慈鎮和尚の門に御入りになった時に、十九願に入ったのである。こういって差支えない。誰かに教えて貰って十九の願に入るのでない。仏門に入った時に既に十九の願に入る。その時ははや念仏ということを知っておいでになった。開山さまは家庭に居る時に既に念仏を知っておいでになった。けれどもたゞその念仏は漠然とした念仏でありました。だからして別に念仏ということに就いて特別注意を払わない、たゞ漠然としているに過ぎなかった。