表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

一心 (3/1)

広由本願力回向 為度群生彰一心

回向・・・自分のえた善根功徳をめぐらしひるがえして他の衆生にさしむけ、共に無上仏道を求めること。追善供養などを自力回向と言うが、ここでは如来の本願力(他力)回向で、仏の方に成就されてある功徳を衆生にふりむけて下さること。

群生・・・迷いの世界に群がり生じている多くの衆生のこと。

度・・・済度。生死の大海に迷う衆生をすくって、さとりの世界に渡らしめること。

一心・・・「浄土論」の初めにある「世尊、我一心に〜」の言葉を指す。本願力回向にめざめた心。真実の信心。何ものにも動かされない安らぎの心。曇鸞はこの一心を解釈して「我一心とは天親菩薩の自督の詞なり、言うこころは無碍光如来を念じて安楽に生ぜんと願ず、心々相続して他想間雑することなし」と言う。自督とは自身の表白であるが、それが先達となって衆生に灯をあたえる意義をもつ。

(教学研究所編「正信念仏偈」より)

ここから管理人の雑感です。

大乗仏教というものに、あるいはその菩薩といわれる方々に、かならず「相続」ということがある。それがなければ大乗とはいわないのではあろうけれど、必ず相続がある。

相続というと、私たちが一番に思い浮かべるのはおそらくまったく別のことになるのが常で、それも確かに相続に違いはないけれど、もっと大切な相続がある。

ここにある「心々相続」とは「他想間雑することなし」ということなのだろうけれど、大乗仏教の根本精神というものも、時空を隔てても相続がある。また大乗の菩薩と菩薩に相続がある。

こういうことが証明するのは何であるのかということを、今、私たちは問い直すべきなのではないかと切に思う。

確かに口では他力回向だ如来の真実信心だという人はいる。けれどもその言葉の重みのなさ(私は重みがないと感じる)は、何かの欠落の証拠ではなかろうか。