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三願転入と廻向 (2/27)

で、もう一つ言葉を換えて云えば、願が自力であれば信は自力である。なぜ信が自力であるかと云えば、内なる願が自力であるからである。信心が他力であるということは願が他力であるということに因るのである。だからして信がおのずから他力信心であるということは何が証明するかと云えば内なる願が証明する。信心が他力であるというようなことは、信が信としての位に於て、証明することはできない。信が自ら深く限りなく内観して、信が内なる願を観ずることに依って、信が他力信心であるということを明らかにする。即ち信が他力廻向の信である。他力本願成就の信ということは即ち信を内より照らすところの願に依って初めて証明せらるるものである。こう私は言いたいのであります。
(真宗の眼目より、昨日の続き。一部既出、一部省略)

それで三願転入と廻向に就いてでありますが、私の一道友は『教行信証』六巻を分って前五巻は廻向の巻である、第六巻は転入の巻であると云われています。昔から云えば『教行信証』六巻を前五巻は真実の巻である。第六巻は方便の巻である。前五巻は顕正の巻である。第六巻は破邪の巻である。こういう工合に昔の学者は云っているのである。けれどもわが道友は前五巻は廻向の巻、第六巻は転入の巻である。こういう工合に云って居ります。誠に結構の解釈と存じます、けれども、私、実に考えまするのに、廻向と転入とは二つあるのではない。法については廻向と云い機に就いては転入という。ただ法の位と機の位とから附けた名前の違いだけでありまして、廻向も転入も一つである。転とは廻なり。廻向は廻転趣向なり。これは昔からずっと伝統の解釈である。随って転入とは廻入である。廻と転とは同一である。かるがゆえに三願転入は又三願廻入ともいう。だから寧ろ三願廻入と云ったならば間違がないでないか。三願転入と仰せられるところに却って誤解が来ているのでないかと思います。転入と云うと梯子段みたように一段一段と段を上るように思う。廻向と云えばぐるっと方向転換すること。だからしてそこに転と廻とは大体そういうように、転は直線的に転進するように考えられる。廻と云えばぐるりと方向を換えること。そういうので廻と転とそこにちょっと気持が違うようです。だからして転入と云うと梯子段を上るように昔から考えられているのも亦已むを得ないことかも知れぬ。しかしながらそうだからといって転入ということを、梯子段を上ることだ。そう決めて考えるというと大きな間違がありはしないか。ただ梯子段を上るのではないのであります。十九願から二十願、二十願から十八願。第一段はこれ第十九願、第二段はこれ二十願、第三段はこれ十八願の三段を経てそうして三階へ上がるように真宗浄土に往生するのである。こういうように多くの人は考えているのであります。しかしながら果してそういうものであろうか。転入とはそれだけのことであろうか。転入ということは一つ一つ上って行くのを転入と云うと決まっているのであろうか。上っては止り上っては止り、止ったり上ったりする。そういうことが本当の転入であろうか。分々段段に上って行くということであろうか。必ずしもそうでないと私は思います。