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至心・信楽・欲生 (2/26)

浄土真宗は信心為本である。その信心というのは他力信心である。その他力信心というのは一般的に云えば、本願他力を信ずるところの信心である。こういう意義であります。しかしながら真宗の特別の意義から申しますれば、本願力から廻向せられたる信心ということである。こういうところからして至心・信楽・欲生の三心は一体でありますが、従来の多くの学者達が三心中に於ては信楽を以て根本とするということのみを強張して、その信楽を本とする所以は如何ということになるというと、その意義が甚だ明瞭を欠いていた。それは何であるか云いますと、即ち欲生我国ということの本当の意味が明瞭になって居らないからである。欲生我国は他力信心、即ち他力廻向の信心、他力信心ということは之を自分の自覚に訴え、その他力廻向ということを欲生我国が自証するものである。
(真宗の眼目より。既出、一部省略)

全体この信の原理は願である。信というものはつまり内に深重なる祈り、即ち願というものがあって、その願に因って決定されるのである。信を決定するのは願である。つまり信の因は願である。信は願の結果である。こういう工合に云って差支ないだろうと思います。即ち願が清浄ならば信は清浄であり、願が不浄であれば信心が亦不浄である。願が穢れて居れば信心が亦穢れる、願が純粋であれば信心が亦従って純粋である。願が濁り不純粋であれば、信心が亦濁って、そうして不純粋である。信の純粋不純粋、清浄と混濁とを分つところの、その内なる因は願である。願が信を決定するものである。信が願を決定するのではなくて、願が信を決定する。こういうことを言って差支えなかろうと思う。昨日はそのことをはっきりと云われませんでしたから、聴いて居る御方には話が不徹底であったろうと思います。で、私は今日は信と願との関係は因と果との関係を有っているということを、ここに明らかにして置く次第であります。