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光の佛さま (2/24)

で、私共はその名号の上にその名号の徳を述べて、或は十万億土の浄土と云い或は十劫正覚の阿弥陀と申上げる。これは皆その名号の上におのずから感ずるところの一つの純粋感情である。その感情を述べているのであります。そこに理論もなければ理屈もない。その外に佛がなければならなぬ、それがなければたすからない、我々は安心せられない、そういうことではありません。ただ南無阿弥陀佛のお念佛だけで沢山、これが浄土真宗である。それは何であるかといえば昔の法蔵菩薩の五劫兆載永劫の御苦労で南無阿弥陀佛が成就した。阿弥陀如来が正覚を御取りなされた。この如来は光である。光の佛さまである。尽十方無碍光如来。
(真宗の眼目より、一部既出)

光の佛さまなどというと何か頼りのないようだ、佛といったら人間と同じように頭があり、手もあり足もあり、そういう佛さまでなければ頼りないと、我々人間は思う。皆さんはそう思うでしょう。けれども一体人間に頭があったり耳があったり鼻があったり口があったりするのは何の為であるか、煩悩の為である。煩悩が鼻を拵えたり眼を拵えたりしている。自分の欲望を満足する為に、眼を作ったり鼻を作ったりしている。佛は煩悩がないから眼も要らんし鼻も要らん、光だけでよい。人間が手前が煩悩があるものだから眼が欲しかったり鼻が欲しかったり手が欲しかったり。それで兎に角人間が、手足があったり顔があったり耳があったりしているのは、皆煩悩の用事なんです。煩悩がそういうものを要求している。煩悩の要求に応じて耳が出来たり鼻が出来たりしている。その煩悩の要求で以て業を造って、その業の働きで耳が出来たり鼻が出来たりする。佛さまにはそういうものは要らん。ただ光だけでよい。