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六字の名号 (2/23)

総べて本願力というものがある。その本願力というものは南無阿弥陀佛のことである。南無は是れ本願である。南無は是れ昔の法蔵菩薩の四十八願である。阿弥陀佛の四字は今日の阿弥陀如来の自在神力である。だからしてもはやその外に佛さまの仕事は何もない。だから私共はもう南無阿弥陀佛を頼めばよい。南無阿弥陀佛以外に佛さまを頼む必要はないのである。もう一つ云えば南無阿弥陀佛だけがある。南無阿弥陀佛の外に佛さまはないものだ。こう云うてもよい。この六字の中に佛さまはおいでになる。阿弥陀如来という御方は六字の中においでになる佛さまである。阿弥陀如来とはどんな御方であるか。六字の名号が阿弥陀如来である。それが本願力である、だからして如来の本願力というのは南無阿弥陀佛である。
(真宗の眼目より、既出)

だから佛法は南無阿弥陀佛が唯一の存在である。後は何も要らんものじゃ。その外に佛を頼むことを要らない。南無阿弥陀佛を除いてもう一つ佛さまを頼むというのは、それは佛法の教と違う。そこの道理をもっと明瞭にしてくる必要があると思います。けれども大体はそういうことであります。だから云ってみれば法蔵菩薩は因位の人柄でおいでになったに違いない。けれども今日阿弥陀如来と申上げるのは、南無阿弥陀佛の名号であると言って差支ない。そうすると名号だけを阿弥陀如来という。その外何もない。ただ名号だけあるものだ。何だか頼りないものだ。こう皆さんは思われるかも知れん。けれどもその名号こそ阿弥陀如来の御魂である。そのみ霊を頼む。だから『蓮如御一代聞書』を拝読しますというと、他流には名号よりも絵像、絵像よりも木像と云う。当流には木像よりも絵像、絵像よりも名号と云う。浄土真宗の純粋の御本尊は名号である。こう仰しゃる。だからしてこの南無阿弥陀佛という名号だけしかない。又それだけで沢山なんだ。