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佛法のおたすけ (2/22)

浄土真宗では、佛さまは如来の本願力に依ってたすけたまう。だからして佛さまは別に何もなさらん。本願力というものを成就しておいでになる。本願力を成就して下されてあるからひとりにたすけられる。本願力南無阿弥陀佛を成就してあるからして、もうただ法爾自然にたすかる。自然法爾にたすかるべきところの法を成就して、そうしてたすけて下さる。ところが外の教はそうではなく、神さまが何か不思議の力を以てたすけて下さるのである、こういうふうに教えている。ところが佛教だけはそうでなくて本願というものがあって、本願というのは別に佛さまが一人一人をたすけてやるというのではないのでありまして、諸有るもののたすかるべきところの法を成就して、あらゆるものを平等にたすける。そうして佛はもう何もしないでよい、まあ寝ていなさい。そこでもう一つ云えば、法さえ成就すれば佛さまは何も用はない。佛さまは何もしないで、法さえ成就すれば、法で衆生はひとりたすかって行く。それが佛法であります。
(真宗の眼目より、一部既出)

佛法のおたすけということは、たすけるところの法を成就されるのが、それが本願、その南無阿弥陀佛の法の力でたすかって行く。衆生は決して直接に佛さまがたすけるのでない。佛さまが一人一人をたすけなさるのでなくて、一切の者の進むべきところの法を成就して、そうしてあとはもうお前達がたすかろうとたすかるまいと、お前達の責任だ。たすかりたければこの法に頼(よ)れ、佛はただ見ていなさる。見ていなさるかいなさらんかそれは分らぬけれども兎に角仮に云えば法を成就して、さあ皆さんたすかりたければこの法に頼(よ)りなさい。私はもはや用事はない。この法門を残して置くからして、たすかりたければこの法に頼(よ)れ。是が佛法であります。外の教はそうでなくて、神さまが一人一人世話をなさる。佛法はそうでない。不可思議兆載永劫の、法蔵菩薩の本願修行というものに由って、南無阿弥陀佛という一つの法を成就なさる。法を成就してみれば佛さまは別に用事がない。御隠居されてよい。それは譬だけれどもまあ謂はそんなようなものである。佛さまは何も救う用事がない。法がちゃんとあればもはやたすかりたいものは法を頼み、たすかる必要のないものは法を頼まんでもよい。「このうへは、念佛をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」とある。きっと開山の仰しゃるとおり阿弥陀如来も、面々の御計らいなりと仰しゃるに違いない。だからして別に佛さまは忙しいことはない。余所の神さまは忙しい。まあ千手観音ということがある。観音さまは千本の手を持っていらっしゃる。阿弥陀さまに千手は要らん。阿弥陀さまはたった二本の手を持っていらっしゃる。その二本の手をちゃんとこうしてこうしていらっしゃる。何も手を上げたり下げたりなさらん。何故かと云えば、南無阿弥陀佛という法がちゃんと成就してあるからそれだけでもはや後はただ皆さんにたすかる宿善が有るか無いかに因って、たすかるたすからんがある。だからして私の用事はこれで済んだ、もうこれから大仕事をするのでない。不可思議兆載永劫の修行で私の用事は終った。南無阿弥陀佛というものを成就して置きますから貴方方はたすかりたいものは之を信じなさい。たすかる必要のないものはそれでよろしい。勝手にしなさい。こういうのが浄土真宗の教じゃないか。阿弥陀如来は何も早用事がない。悠々閑々として泰然自若としておいでになるに違いない。何か阿弥陀如来というと忙しそうにあっちへ飛び回りこっちに飛び回りしていらっしゃるように思う。そんなことはない。余所の神さま余所の佛さまは飛び回っておいでなさるかも知れません。阿弥陀如来は南無阿弥陀佛を成就しておいでなさるから、何も用事がない。