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欲生の燈火 (2/21)

だからして信楽の中に欲生の燈火を点す。この信楽が純粋である為には信楽が自ら欲生という燈火を点して、或は欲生というところの一つの鏡を前に置いて、そうして信楽が自分自身の汚れを照らす。自分自身の穢れを示して呉れるから、ちょうど女の人が鏡を見て自分の顔が汚れていることが分って、自分の顔を洗うと同じように、信楽が自らの純粋を証明する為に欲生の鏡をそこに開いて、そうして信楽を照らす。信楽を照らすとともに又信楽と欲生というものは要するに合せ鏡のような関係を持っているだろうと思われるのであります。信楽は欲生を以て信楽を照らす、同時に又信楽が欲生を照らすというようにして行って居ろうと思われます。で、私共は佛さまというと何か神秘的、佛さまが我々をたすけて下さるということは何か神秘的な働きである、こんなふうに思う。
(真宗の眼目より、2/19の続き

一体浄土真宗では阿弥陀さまにたすけられる。阿弥陀さまが我々をたすけて下さる。たすける佛さまとたすけられる我々とは別々にある。こういうように聖教に書いてある。そうすると佛さまと我々とが全く別のものか。我々と全く別のものである、又全く関係のない佛さまという方がおいでになる、その方の神秘的な力で我々はたすかるものだ、そういうのでありましょうか。いろいろな宗教があって、神さまにたすけられるとか佛さまにたすけられるとかいうようなことを云うのでありますが、佛さまを頼み亦佛さまに祈って、神佛に祈りをかけてそうして神・佛にたすけて戴く。一体そういうことはどういう意味であるか。その道理がはっきりしないというと、そこに何かもう神秘主義と云いますかそういうものを描きます。何か神さまとか佛さまというものを頼む。そうすると何かそれを当てにする。まあいいようにして下さるだろう、そんなことをしていい加減に寄り掛って行く。そういうようなことがおたすけに預ったことであろうか。そういうおたすけというものは一種の神秘主義であります。しからば佛法というものはそういうものであろうか。そういうことをもう一つ考えてみる必要があると思うのであります。佛さまが何か不思議な力を以て一人一人たすけて下さる。あれをたすけてやろうかこれをたすけてやろうか、そんなふうに無量無数の衆生があるのに、あれをたすけねばならんこれをたすけんならんといっては忙しゅうて大変なものであろう。佛さまというものは、まあ偉い御方だからして同時に千人でも万人でも幾らでもたすけて下さることが出来るものだ、人間のようなものでない。人間なら二人や三人はたすけられる。けれども千人万人の人間を一緒にたすけてやるいう訳にはいかぬ。けれども佛さまというものは不思議に神秘的な力を有っておいでになるから、たすけて下さるものである。こんなふうに解釈すれば一応解釈が出来るようであるけれども果してそれが浄土真宗の教であろうか。