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純粋感情 (2/19)

兎に角一念帰命のところに現生不退に至るという。その事実を南無阿弥陀佛を以て現わす。だから別に南無阿弥陀佛ということは、未来往生というようなことを表に立てているのでないのでありまして、これは正しく現生不退ということを示している。決して未来往生というものを語っているのでない。それは称える念佛行の事実の上に、一念帰命現生不退ということを語っている、こういうのであります。これはつまり開山聖人の『教行信證』の教であり、又蓮如上人の『御文』の教である。又そして憶念の信がある。憶念の信というのは何を憶念するのであるかというと、欲生我国、そこに憶念の信があり自覚の原理があります。そこに憶念の信つねにして、益々内より内に無限に進む、無限に自分を掘り下げて行く、それが欲生我国である。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

大体十満億土の西に浄土がある、そこへ我々が往生する、往生しなければ救われない、そういうことが浄土教一般の伝統であります。そういうことは理屈でもない、理論でもない、それは一つの純粋感情というものであります。なぜ西方に浄土を建立されたのであろうか、なぜ十万億土の西に本当の浄土があるか、そういうことは別に何も理論とか論理とかいうものはないのでありまして、ただ何か知らんけれどもそういう議論とか論理を超えたところの純粋感情と云いますか、それを無生の生と言う。阿弥陀如来の御本願の事柄は皆純粋感情の世界。それを信ずるところの他力廻向の信心というもの、又純粋感情である。純粋感情の道理を純粋感情で以て受取る、それがつまり至心信楽の他力の信心というものでありましょう。その純粋感情の中にその感情をして純粋ならしめる、その自覚原理が欲生我国である。つまり永遠の自力、我情の濁りを去ってそうして純粋ならしめるところの実際の力、実際の実行原理というものが欲生我国であります。信が純粋であるということの為には、その信楽の上に自分自ら現在の自分が不純粋なることを自覚し、痛み悲しみて、懺悔廻心して、そうして自分自身無効ということを本当に自覚せしめるところのその原理と云いますか、感情と云いますか、智慧というものが欲生というものであります。