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南無阿弥陀佛の本質 (2/18)

正定聚に住するということが、先程も申しました欲生我国ということである。欲生我国というところの一面には、正定聚に住するということが成立する。その信の一念は正定聚の位に至るというその二つを総合するものが欲生我国というものである。だからして暫く因と果とを別けて、前念命終・後念即生。他力信心は前念命終の因であります。それからして正定聚に住するということは、これは後念即生の結果である。因果一体である。因果一体なるところの自覚原理がそれが欲生我国である。そこの道理を明らかにするのが「正定聚に住するが故に必ず滅度に至る」という「故に」である。だからして正定聚も入用だし滅度も入用、二つ別なものでもよいが二つどちらも同格に入用、こんなふうに『御文』を読んで居るならば間違である。
(真宗の眼目より、2/8の続き)

あの『御文』は全体そんな『御文』でない。あれは現生正定聚ということが浄土真宗だぞということを明らかにする為に、あの二益一益の問答が起って来るのであって、その問答の根本は何処にあるかということをはっきりして置かなければならぬ。それをはっきりしないと益が二つある。益が二つあるということは体が二つあるということではないのであります。位が二つあるということ、正定聚は因の位、滅度は果の位。他力の二益は位の上に就いて云えば正定聚と滅度とは位を異にする。けれどもその体も二つあるのでない。体は一つである。だから「正定聚に住するが故に必ず滅度に至る」こう仰せられる。だから正定聚に住するというそれだけで満足して、もはや何も要らぬ。それでもう我々のおたすけが成就した。本願のおたすけは正定聚に住するというところに成就した。本願成就の経文には滅度ということが書いてない。第十八願を見れば、若不生者不取正覚というのだからして、何か滅度があるようである、滅度のことを中心にして居るように見える。第十八願には現生正定聚ということがはっきりしない。現生正定聚がはっきりしないで必至滅度ということ、未来の往生成佛ということが表になって居るようである。これは因位の本願ということからはそうあるべきこと、本願は佛が因位の位に於て本願を起すのであるからして、本願の位から云うとどうしても説我得佛、だから何うしても現在のことをいう訳に行かぬ、本願とか誓願とかいうものは未来を約束するもの、現在のことは約束する必要はないのである。だからして本願は未来往生を以て表面に立てて、それが所謂成就になると、これは正しく現在正覚の阿弥陀如来の位のところに本願成就がある。本願成就へ来るというと、未来のことは全く除いてしまってただ現生不退一点張り、現生正定聚一点張り。これがつまり聞其名号信心歓喜。南無阿弥陀佛は未来往生を主にして居るのでない。南無阿弥陀佛は現生不退のおたすけ。だからして南無阿弥陀佛というところに現生不退がある。阿弥陀佛即是其行というのは現生不退である。だから未来を待たずして此世に於て正定聚に至る。此世の正定聚で以て現在の救いを証明する。現在の救いというものは前に申しましすように欲生我国である。その欲生我国を具体化したものがそれが南無阿弥陀佛である。欲生我国は南無阿弥陀佛の中にあって、而も南無阿弥陀佛を成就するところの原理が欲生我国である。南無阿弥陀佛の本質は欲生我国にある。