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浄土真宗の精神 (2/17)

私は念佛に就いても、本願に就いても、信心に就いても、又大行に就いても、往生に就いても、総べて皆欲生が之を示すのである。欲生が我々の進むべき方向を示し、又欲生が今我々の居るところの現在を示して居るものである。又『大無量寿経』一部というものは、総べて欲生我国の内面を開顕したものである。欲生我国の純粋なる内面を開顕したものがそれが南無阿弥陀佛であり、それが『大無量寿経』である。その欲生我国の現われた外側を描き出したのが『観無量寿経』であり『阿弥陀経』である。
(真宗の眼目より、2/15の続き)

だからして総べて佛教と外道とを区別するものが欲生我国である。自力と他力とを区別するものが欲生我国である。真実と方便とを区別するものも欲生我国である。我等に往生を指示するものも欲生我国である。往生を決定するものも欲生我国である。欲生我国がないならば何も分らぬ。右も分らぬ左も分らぬものである。浄土真宗の根本は欲生我国にある。こういうように私は云うべきものでないかと考えるのであります。(中略)

浄土真宗の精神というものも、佛が至心・信楽の中から更に欲生我国というものを開いて、そうしてそこに信楽の自覚、信楽が信楽自らを自覚するという、信楽を内より照らし出すところの、その原理が欲生我国である。開山の浄土真宗の立場というものは、大体そういうところにある。言葉は明徹を欠くようでありますけれども、従来はただ信楽だけで宗学を立てようとした。従来の宗学は欲生を伴食として信楽だけで眞宗学を立てようとしたのでありまするが、私はそうでない。眞宗学というものは信楽と対立して欲生があるのでない。信楽の中から欲生を開顕したのである。こういう工合にみて、そうして信楽が欲生を開顕して来たところに、初めて浄土真宗というものが成立するものだ。