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見えてこない (2/13)

三日ほど前から掲載している曾我先生の言葉は、「真宗の眼目」第1講『現生不退の自覚原理としての欲生我国の招喚勅命』にあるもので、ずいぶんと略して掲載しています。たとえば、

(ここから)
我等の祖先は第十八願の欲生というものを持余して居った。欲生とさえ云えば自力だと考えられた。十八願の欲生を他力の欲生だ、強いてこういうけれども心の中では自力だ、だから欲生を苦心惨憺して、いろいろさまざまに言葉をあっちへ廻しこっちへ廻して、なければよいのだけれどもあるものだから、あるものを消す訳にいかないものだからして、それを何とかして、痛いところへ触らぬようにして居った。欲生我国がないものならよいけれども、願文にあるものだから仕方がない。

それは何か自力臭い自力臭いと考えられて欲生我国というのは十九の願や二十の願の持ち前だというようにどうしても思って居る。それが十八願の中心にあるものだからして十八願の欲生というものは、これは普通の欲生と違うものだ、こういうように何か特別の意味を見出そうとして来て居ったようでありますが、それは根本的の間違いでないかと思います。
(ここまで)

というくだりがあります。


なるほど今日の「教学」なるものはご開山のお言葉をもらすことなく説示はするものの、示されたものの心というか、それに至る精神というか、そういうところまでつっこんだ解釈はないように思えてきます。「痛いところへ触らぬようにして」いるかのようです。なにも曾我先生という人を特別視するわけではないのですが、今日ではここまでものをいう方はいなくなったようで、おとなしいというかありきたりの「説明」に終始しています。

それは時代の要請というものでしょうか、あるいはたとえば真宗学の基本をすでに身につけていて、ご開山のお言葉を研究・学習の対象としているような方々にはかえってよいのかも知れません。けれども少なくとも私のようなものには響いてくるものがありません。祖師親鸞という方が見えてくるということがまったくありません。もちろん、だからどうのこうのと言う気はないのですが、迫力に欠けるということは確かだと思います。