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他力廻向の信心 (2/11)

欲生我国は至心信楽の眼目である、本当の信楽の中心が欲生我国である。されば我が祖聖人は、如来が諸有の衆生を招喚したまう勅命であり、それから信楽が如来廻向の信楽であるということは、信が内に欲生を開顕することに依って之を証明しなければならぬ。言い換えれば他力を信ずると云われるけれども欲生がなければ他力を信ずるという信心というも心にただ他力だと信ずるということであって、その信ずるということは単なる主観的の意義しかないのでありまして、それの客観的事実であることは欲生心に依って初めて証明しなければならぬ。だからして第十八願の欲生我国は、内には他力を信ずる信心が他力廻向の信心であるということ、即ち能信の信楽が他力廻向であるということを証明し、外には十九・二十の願というものをそれから開顕しまして、そうして十九・二十の願の自力廻向の行動を否定するものである。つまり自力廻向を捨てて他力の信楽を開顕するところのその契機たるものが欲生我国である。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

欲生と云えば何かお浄土を待受けるというようなことである。欲生というものは後念にも通ずるものである。こんなことを云う人があるけれども、欲生の欲の字はおもいたつということ、我が国に生れんと思い立つということである。欲という字は何時でも何時でも浄土を思い出して、そうして近づく浄土を待受ける。そんなようなことを云うのではないのでありまして、本当に我を目覚まして自力妄執に括られて居るところの我を目覚ましめる。それを招喚する、招喚するということは目覚ましめるということ。自力妄想に迷い彷徨うて居るところの、無能であり無力である我を本当に目覚ましめる、それを諸有の衆生を招喚すると云うのであります。招喚するということは、我々の無知なるが故に無知を知らざる罪を自覚せしめる。欲生我国は諸有の衆生を招喚し、本当に我々を長い間の妄念妄想からして目覚ましめるところの如来の喚び声である。如来の喚び声というのは法ではない。欲生我国は如来の喚び声であるということはつまり自己が本当の正機であるということ。機の中の機である。至心は法である。信楽は法の中の機である。欲生は機の中の更に機である。こういうようにその意義を象徴的の言葉で以て、諸有の衆生を招喚したまうところの如来の勅命である。こういう言葉で表わす。だからしてこれが他力廻向の信心に間違いないことを自覚自証し、そうして他力信心ということは本当に自力妄想を捨てる廻心懺悔の自覚である。自力を捨てるところに他力信心があるいうことを示し、正しく一念帰命というものを示すところの自覚原理が即ち欲生我国である。それ程に欲生我国ということは信楽の中心、心臓にも当るが如き重大なものである。あの欲生我国を原理としてそこに第十八願が成立し、そこに南無阿弥陀佛が具体化し、つまり欲生我国を具体化したものが南無阿弥陀佛であり、それが第十八願である。欲生我国からして更に十九・二十の方便の願というものが開顕されたのである。そこに三願転入がある、そこに他力廻向の信心がある、そこに信の一念開顕がある。その信の一念を開顕するところの自覚原理が欲生我国である。こういうのが開山聖人の『教行信証』の「信巻」の釈の意でないかと、私は思うのであります。