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欲生我国 (2/10)

ただ他力を信ずる信心では、終に臨終現前というところへ堕ちて行かねばならぬのであります。他力廻向の信心というその大きな大自覚の体験に由って初めて一念帰命の真実信心を獲て、無上涅槃に於て現生不退の益を得る。それに依って本願成就ということが証明されることとなったのであります。
 翻って本願の上に之を求めてみるというと、至心信楽欲生我国とある。あの欲生我国というところにそこに如来の廻向心がある。自力を捨てて三願転入する。即ち三願転入の樞機というものはここにあるということを、我が祖師聖人は感得せられたのであります。ここに初めて平生業成ということが明らかになって来た。昔より浄土真宗の上に於て、三願転入ということをいうけれども、第十八願・第十九願・第二十願というものが、皆別のものだと考えられて居る。十八・十九・二十の三願が初から別のものだと考えられて居るならば、それでは本当の三願転入ということは成立たぬのである。本願が本願自らを証明するところのその原理は何処にあるかといえば、即ちこの欲生我国というところにある。
(真宗の眼目より、1月18日の続き)

だからして本願の欲生我国を開山聖人は『教行信証』に解釈せられまして、欲生我国は如来が諸有の衆生を招喚したまう勅命であるとするのである。如来の招喚の勅命というのは法だと多くの人は云う。けれども如来招喚の勅命こそは真実なる機の自覚である。それが真実信楽の自証の原理である。その欲生我国の自証から十九・二十の方便の願が開けて来た。第十八願のただ一箇の欲生我国から十九願・二十願が開けて来た。十九の願・二十の願は何処から開けたか、十八願の欲生我国から出て来た。然らばその第十八願は何処から出た、第十八願も亦自分の欲生我国から出て来たのである。第十八願の眼目は何処にあるかと云うと欲生我国から出て来たのである。第十八願の眼目は何処にあるかと云うと欲生我国にある。第十八願の至心が如来廻向の至心信楽が真実清浄の信楽であるということは、欲生我国が自証するからである。ただ至心信楽というだけでは本当の至心信楽でない。信楽を更に内面化して欲生我国というものを見出した。つまり南無阿弥陀佛の中に如来の至心を見出し、その至心の中に信楽を見出し、信楽の中に欲生を見出す。欲生ということは信楽の眼目である。