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正定聚 (2/8)

そうすると『御文』と違うのじゃないかと。『御文』一帖目第四通を拝読すると、「問ていはく、正定と滅度とは一益とこヽろうべきか、また二益とこヽろうべきや。答ていはく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度とは浄土にてうべき益にてあるなりとこヽろうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。」正定聚と滅度の益は二つ別なものである、正定聚は穢土の益、滅度は浄土の益、だからして二益である、こう書いてある。ちょっとみると私の云う正定聚と滅度は一体である、正定聚即ち必至滅度の体勢である。こう云うのと『御文』の御化導と違うようである。こういう疑を有つ人があるかも知れない。けれども私はもう一度『御文』をよく拝読する必要があると思う。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

全体あの『御文』は「親鸞聖人の一流にをひては、平成業成の儀にして、来迎をも執せられさふらうはぬよし、うけたまはりをよびさふらふは、いかゞはんべるべきや」。親鸞聖人の教えらる浄土真宗は、平成業成であって臨終来迎を待たぬ、一念発起平生業成という道理を明らかになさる為の『御文』である。だからして正定聚は穢土の益であり滅度は浄土にて得べき益であると、こういうふうに書いてあるのは、二つの益のどちらの方が主要なものか、実際どちらが今要り用なものか、こう云えば今は穢土に居るのだから正定聚だけ入用、滅度は今要らぬもの。滅度は浄土にて得べき益であるから当面の問題でない。今の問題は正定聚に住するか住しないかということである。今滅度に至るか至らないかは問題でない、正定聚に住して居るか正定聚に住して居らぬか、それが浄土真宗の今の問題である。今の問題はそれだけしかない。滅度なんどいうものは正定聚さえ得ればおのずから至れるものである。「正定聚に住するが故に必ず滅度に至る」、曇鸞大師は「故に」という一字で四十八願中の第十一願、必至滅度の願というものの正定聚と滅度との関係を明らかになされて、曇鸞大師が三願的證の釋文のところに「正定聚に住するが故に」と仰せられた。この「故に」という字は経文にない。「定聚に住して必ず滅度に至る、」こうである。それで正定聚と滅度との二つの関係を明らかにせられた曇鸞大師のお手柄というものは、「故に」という一字を中間に置いて、正定聚に住するから必ず滅度に至ると仰せられたことにある。だからして滅度というのは当面の問題でない。正定聚に住するということが大切である。正定聚に住するということさえあれば滅度はおのずから得られる。滅度はもはやどうでもよいこと。どうでもよいと云うと少し言い過ぎかも知れぬ、しかし言い過ぎでもして置かぬとはっきりせぬから、正定聚を得れば滅度なんどいうものは要らぬものである、滅度なんどいうものは我々が求めなくても得られるものである。滅度というものを得るところの重要な一つの枢機は正定聚である。正定聚というものにさえして貰えばそれでよい。だから『御文』は、滅度は浄土にて得べき益だからこれはどうでもよいこと、これは今要らぬことだとは書いてないけれども、言わんでも分っている。正定聚と云えば穢土の益であり、この穢土の益が今入用である。これがないと信心が成立たぬ。正定聚に住するか住しないかというところに信心が成立つか、成立たぬかということがある。他力を信ずる信心に止まらずして、その信心そのものも他力廻向であるかないかということは、正定聚に住するか住しないかという其処に決定する。だから正定聚に住することが、これが非常に大切なことである。