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現生不退 (2/7)

「眞宗一流の安心の体は、南無阿弥陀佛の六字のすがたなりと知るべし」。六字の名号を体としてそこに一念帰命の信心を見出す。その一念帰命を見出すことに依って、同時に立所に現生正定聚に至る、だから六字の名号は一念発起平生業成の道理で、南無阿弥陀佛の行体の上に、一念帰命、平生業成、現生不退の位に至らしむる。そして満足して、これだけでもう何の不足もない。一念帰命のところに現生不退に住する。現生不退は本願の利益の只半分のものだ、もう半分はお預りだ、こんなふうに考えたら大きな間違である。今有っている方は半分だ、けれどもそれは値打のない小さな半分である、あとの半分があるからしてそれが尊いのである、あとの半分は未来の無上涅槃。現生正定聚の今の半分は位が卑しい、後の半分の無上涅槃は尊いもの、それはお預り、こんなふうに思ったら間違である。
(真宗の眼目より)

成程現生不退というものはまだ佛より下の位である。まあ現生不退といえば、言ってみれば或はそれは等覚の弥勒菩薩と同じく佛より一段低い位だ、それだからして未来浄土へ往生するとき初めて阿弥陀如来と同一の位になり同体のお悟りになる。これは此世の半分、これは未来の半分、半分と半分と二つ寄せて全体、そんなふうに考えると大きな間違を起こさせる。聖道門の自力の方で云えばそれでもよいのです。聖道門の方で云えば梯子段を上るように五十二段の階段を一段一段上って行くのだから、それは等正覚は等正覚、佛は佛、別のものだと一応そう考えられる。体は一つのものであろうけれどもしかしまあ暫く聖道門では正定聚、滅度は滅度、こういう工合に聖道門流の考は自力で以て進むもの、だからして、一関又一関というように、一つずつ関所を超えて行かねばならぬ。そうすれば半分ずつ二つ合せて初めて全体、こう考えるのも一応は正しい考である。けれども、今我々は南無阿弥陀佛を体として、如来より与えて戴くところの本願力廻向の正定聚であり、又滅度であるならば全く一つである、正定聚と滅度と同一体である、こういうのが浄土真宗の正意である、だからしてもう我々は未来の滅度なんかどうでもよい。成程本来は滅度が終局の目的であるけれども、しかしながら当面の問題としてはただ正定聚に至ればそれでよい。正定聚に至れば滅度目前にあり、正定聚体勢のなかに必至滅度がある。正定聚の外にもう一つ滅度があるのでなく正定聚に滅度がある。