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論理と道理 (2/5)

此頃の人は論理と道理と混同している。現代には理論がある、けれども道理がない。我々は理論は知らないけれども道理を知らして貰う。道理は知らして貰うものであり理論というものは人間が作り上げるものである。理論というものは我の武器である。我が我を護るところの武器である。我が我を護り我が我を拡張してそうして他を征服する。外物を征服し他人を征服する。自我が他我を征服し又非我なる自然を征服する。学問というものは自然を征服する武器だと、こう人はみる。
昨日の記事の曾我先生の言葉)

「自然(しぜん)」と対をなす言葉は、一般的には「人為」とか「人工」ということになるのでしょうが、いずれにせよ人が為し人が工む(たくむ)ということですから、人間の都合が入り込むのは当然のことです。人間の都合を一方的に押しつけすぎると、おのずから存在してこの世界を秩序立てている自然(しぜん)と人間が対立することになります。
(1月13日の随筆かも知れない

私は無宗教だとおっしゃる方がありますが、そういうことをおっしゃるときの「宗教」の定義はどんなものになるんでしょう。論理的でないものは受けいれられないということが根底にあるのでしょうか。

自然のままの土地にいくら論理・理論というアスファルトを敷き詰めてみても、道理は厳然として行われています。地中に竹の根でもあればアスファルトを割って筍が顔を出しますが、何もそれは取り立てて珍しいことではありません。

私が信じるか信じないかではなく、私というものが丸ごと乗っかっている大地、そもそもそれがなければ私がいま私と言い習わしているものが成り立たないはたらきの世界があります。

そういうことに気づくか気づかないか、これはもともとは「いわゆる宗教」とはあまり関係のないことなのでしょう。しかしながら、そういうことに気づかされることは、人間という宗教的存在にとっては大切なことだと思います。