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回向と転入 (2/4)

総じて廻向とか転入とかいうことは、我々の心の方向の徹底的転換を決定して行くべき枢機をいうことであります。だから法の善巧摂化に就いては主として廻向と云い、機の進趣展開にあっては特に転入と云うのである。この二つは観点の相違であって体が二つあるのではないのであります。それ故に大行を廻向するとか信心を廻向するとか云う時には、行は法、信は機と云うけれども行信と云う時はやはり行も信も一体として、これを総べて法の位に就いて廻向という。随って信心廻向と云う時にも法の位に置き如来の真実と名号に就いて云う。それに対し、廻心・一念発起と云う時には機の受得に就いて云う。信の一念というものは仏から貰うと云うが、仏から忽然として貰う、そんなふうに偶然に信の一念を戴くという秘事法門などというものは皆神秘主義の悪用であります。神秘主義必ずしも秘事法門ではない。けれども神秘主義というものを人間が悪用して、そうして何か私のさまざまのペテンの道具にした時に秘事法門というふうになる。神秘主義にも可なり深いものもある、こう思います。
(真宗の眼目より)

兎に角信心を戴くということは「義なきを義とす」というのだからして神秘主義と同様に思う人もある、けれども違う。義なきを義とすると云う。自力聖道の心を捨て、他力不思議に帰入する。帰入するところは忽然として得るという神秘主義でないのでありまして、獲るのは必ず得さして貰うのだ。得さして貰えばそこに内面的必然の道理がある。信心を与えて戴くに就いては信心には理論はない、けれども道理がある。「義なき」の義は理論論理。「義とす」という義は事実道理である。聖道門は理論本位であるに対し、浄土門は理論を離れて道理に帰する、それを「義なきを義とす」と云う。理論を超えて道理がある。「念仏には、義なきをもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆへにと、」理論がないからと云って、道理までない訳はない。理論がなくなるとき本当の道理が顕われるのであります。理論は他を征伏し勝つところの武器である。理論のあるところには常に平地に波を起す。つまり理論の世界は争いの世界。理論は争いのないところへ争いを起す。道理が明らかになれば長い間の争いも止む。それが道理と理論或は論理と道理の違いであります。此頃の人は論理と道理と混同している。現代には理論がある、けれども道理がない。我々は理論は知らないけれども道理を知らして貰う。道理は知らして貰うものであり理論というものは人間が作り上げるものである。理論というものは我の武器である。我が我を護るところの武器である。我が我を護り我が我を拡張してそうして他を征服する。外物を征服し他人を征服する。自我が他我を征服し又非我なる自然を征服する。学問というものは自然を征服する武器だと、こう人はみる。