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円い南無阿弥陀佛 (2/3)

開山聖人に、「行といふは即ち利他円満の大行なり」というようなお言葉がある。或は「大行とは、即ち無碍光如来のみ名を称するなり。斯の行は、即ち是れ諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり、極速円満す。真如一実の功徳寶海なり。かるがゆゑに大行と名づく。」利他円満の大行とか、極速円満とか南無阿弥陀佛の円ができる。縦の直線の南無阿弥陀佛はただ南無阿弥陀佛と固定して全く連続がない。一声一声孤立である。けれども円い南無阿弥陀佛は阿弥陀佛・南無、南無・阿弥陀佛と限りなく続いて来る。南無・阿弥陀佛とも聞えるし阿弥陀佛・南無とも聞える。自力念佛は力んで南無阿弥陀佛・南無阿弥陀佛といくら称えても南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛で切れてしまう。本願力自然に出て来ておいでになる南無阿弥陀佛は、南無阿弥陀佛とも聞えるし阿弥陀佛南無とも聞える。南無阿弥陀佛と称えているようでもあるし、阿弥陀佛南無と称えているようでもある。南無阿弥陀佛と云っているかと思うといつの間にか、阿弥陀佛南無と言っている。これはまあ一つの説明になるけれども、実は事実であります。
(真宗の眼目より)

かく南無阿弥陀佛がまた阿弥陀佛南無と聞えるというところに、阿弥陀佛が南無に帰し、南無が阿弥陀佛に帰る。こういうふうに南無阿弥陀佛はたった一つの南無阿弥陀佛なれども、本願の念佛はたった一つの南無阿弥陀佛が無限に続いて来る。「往相廻向の利益には、還相廻向に廻入せり」というならば、南無阿弥陀佛の方は往相、阿弥陀佛南無は還相で、阿弥陀佛南無、阿弥陀佛南無と限りなく南無へ行くところに、南無より阿弥陀佛へ無限に進むところの方向。阿弥陀佛から南無へ帰って行く二つの方向が南無阿弥陀佛の中におのずからある。我々が直線の南無阿弥陀佛ばかり知っていて円の南無阿弥陀佛を知らないものだから、直線の南無阿弥陀佛ばかり知っている人はどうしても臨終現前まで行かなければならぬ。私は南無阿弥陀佛を何遍称えてみても、本当の南無阿弥陀佛が称えられない。一生涯にたった一遍でも本当の南無阿弥陀佛が称えてみたい。本当の南無阿弥陀佛と嘘の南無阿弥陀佛と二つある訳はない。本当の南無阿弥陀佛はただ一遍しかない。初から嘘と本当と二つ分けているからしていくら唱えても嘘しかない。本当のものはない。(中略)

南無阿弥陀佛は利他円満の大行。円というものは始もなく終もない。円を描いてみればちゃんと始がある。しかし円をみればどうして描いたものか、円の始は何処でしょうか。円には始もなく端もない。円に端がないから円は描かれないものか。端のないものをどうして描くことが出来るか。この数珠には端がない、この数珠の端は何処でしょう。円いものには始も終もない。けれども数珠には限りない端がある。だからして円は何時でも描くことが出来る。分廻しを廻せば何時でも円が出来る。円だけをみていくら思案したところでどうしてこういう円が出来たものか誰も分らぬ。始も終もないようなものをどうして作ったものだろうか。どうして作ったかというけれども、しかしながら始は何時でも何処にでもある。南無阿弥陀佛は円満の大行であるから始も終もない。けれども何時でもそこに一念帰命、信の一念というところに始がある。信の一念というものがあれば何時でも念佛が出て来る。お念佛の始は信の一念という。それであるからして、もう信の一念から念佛は始まる。出来上った南無阿弥陀佛をみても始もなく終もない。だからしてこの一念帰命に眼を開けば何時でも南無の始は現在である。南無の始は常に信の一念に立つ。一生涯を貫ぬいて常に現に信の一念に立っている。だからして、信の一念というものに立って念佛が何時でも称えられる。南無阿弥陀佛は何時も始があるから何時も何時も新しい念佛が出て来る。新しく新しく生まれて来る。