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虚偽 (2/2)

「回向とは回思向道、我々が仏に願をかけて何事かを祈るのでない。回因向果というような我々の計らう心の方向を回し、仏が発し給う願によって、我々は仏に念じられて道に向かわしめられる。 回心はただ一度あるべし。一念帰命というのは我々の計らいのまじることでなく、阿弥陀仏が南無される一念に帰入するとき、凡夫の計らいの一切がすでに無効である。」というようなことをちょうど七年ほど前に書きましたが、私たちの本当の、本来の姿というのは、仏願にいかされる、現にいかされているそのまま、ありのままの姿だといえます。

「凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因・もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり」とは、如来の願心にそむく、好んで離れたがるかのような私たちには、身に付き刺さるような言葉であり、同時に何かを呼び起こしてくれる言葉です。

天親菩薩は本当に徳のあるものを如来とそのお浄土にもとめられた。これもやはり回思向道という如来のご回向の賜であり、それによって仏願にいかされている我が身という事実に気づかされたからであったのでしょう。

私たちは日常の生活の中で何かニセモノをつかまされると怒る。場合によっては激しく怒るのだけれども、それはつかまされたものがニセモノだとわかる(った)からで、わからないからニセモノを握っても喜んでいる。一応喜ぶんだけれども、やはりどこか、いつしか虚しい。

一念帰命ということがなければならない。それがないままに何をもとめても、もとめるもののすべてが虚偽であり、得られるもののすべてが虚偽であります。