表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

信の原理は願である (1/25)

全体この信の原理は願である。信というものはつまり内に深重なる祈り、即ち願というものがあって、その願に因って決定されるのである。信を決定するのは願である。つまり信の因は願である。信は願の結果である。こういう工合に云って差支ないだろうと思います。即ち願が清浄ならば信は清浄であり、願が不浄であれば信心が亦不浄である。願が穢れて居れば信心が亦穢れる、願が純粋であれば信心が亦従って純粋である。願が濁り不純粋であれば、信心が亦濁って、そうして不純粋である。信の純粋不純粋、清浄と混濁とを分つところの、その内なる因は願である。願が信を決定するものである。信が願を決定するのではなくて、願が信を決定する。こういうことを言って差支えなかろうと思う。
(真宗の眼目より)

私たちが普通にいう「信心」とは、実際のところは欲心であることがほとんどでしょう。欲の心で願をかけて、それを信心といっている。欲心というと聞こえが悪いから信心といっている。そんな気がします。

本当に信といえるもの、本当に濁りのない信というものは、私たちのところにはありません。

私たちのはからいや分別のまったくまじわらない願があり、その清浄な願が清浄な信を決する。信を決するということは、それがはたらきとなってこの娑婆世界をくまなく照らすということです。

照らすところに照らされる人あり。誰か他の人のことではない、この私のことです。自分が煩悩に覆われているから世界が暗い。しかしながら、雲霧之下明無暗、暗いといってもまったくの闇ではないのです。大悲無倦常照我、照らす光がある。この一人(いちにん)を照らす光は、阿弥陀さまのご本願に因るのであります。