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蒙光照

普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照


この名号をもって、十方の衆生をおさめたすけようとの誓願は、永遠(とこしえ)の時を貫いて成しとげられたのであります。すぎては空しい永遠(えいえん)をも貫きとおして、実(みのり)を結んだのは、その願(ねがい)の真実によるのであります。すなわち、寿命無量の願、光明無量の願を根本として、身と口と意の業において、一念、一刹那も清浄ならざるはなく、真実ならざるはなく、不可思議兆載永劫(ふかしぎちょうさいようこう)の間、衆生の為に清浄功徳を円満されたのであります。
 かくて、正覚の大音は十方微塵の国土に至らぬ所ない光明となって響き流れました。無量光・無辺光・無碍光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光とあまねく放たれるその光明の徳は、衆生の無明の闇を破り、悪業にさえられず、清らかな信心の芽をめばえさせたのであります。

(十二光については割愛します hide-me)

光照を蒙る・・・光明は肉眼の対象となるような光線をいうのではない。そのような固定して実体化する人間の分別の固執を離れさせる仏の智慧のはたらきを示すために、十二光として示される。光はものをてらし、てらすことによって覆っていた闇をとりのぞくとともに覆われていたことを自覚せしめる。だからその自覚は覆われていたことの自覚なのである。分別の固執が自覚されることによって固執が破られ、正信が確立する。いわば如来の光は実機の自覚とでもいえよう。人間は自己の実機にふれてはじめて安んずることができるが、それ自体が如来のはたらきによる。分別の固執を離れねば、実機にふれることはできないが、分別の固執がさわりとしててらされれば、すでにそこに如来の光が現顕しているといえる。実機にふれて、はじめてそれが如来のはたらきであったと知らされるのである。

(教学研究所編「正信念仏偈」より)