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南無帰命

帰命無量寿如来 南無不可思議光

無量寿の誓いも深く、われに帰命せよとよびたもう如来の名(みな)に、今こそ、やすらぎ、めざめ、その名(みな)のいわれに心くまなく晴れゆくは、また仏智のはからいにて、不可思議光ぞと示したもう厚いめぐみに、ただ南無と謝する以外に言葉もありません。その南無と帰命したてまつる心のもとには、不可思議光如来の重い願いがましますのでした。

無量寿如来・・・阿弥陀仏のこと。はかりなきいのちの意。

如来・・・「如」は真如・一如ともいい、普遍平等なる真実の法の世界のことで、如来とは真如より来生せるものの意。迷いの世界にあらわれた真実といってよい。つまり姿や形をこえた真実が、人間の聞きうることばとして具体化した仏のことである。その如からの誓願によって南無阿弥陀仏の名号がわれわれに来たったのである。それは仏の名であるとともに、われわれを一如に帰すべくはたらいている名である。真如そのものを法性法身といい、形・姿をとってあらわれた仏を方便法身という。したがって南無阿弥陀仏は方便法身といわれる。

帰命・・・帰礼・敬礼・信従ともいう。ふつうは、自分以上のものに自己の全体をなげ出してすがりまかせることだが、そこには、からだつまり身命を仏になげ出す意味、生命の根本に帰るという意味、仏の教えに信順する意味などが一つになっており、いずれも人間の方から仏にむかってする行為である。その点からいえば、帰命・南無は親鸞聖人のあふれでる信従の表白をあらわすことばになる。しかし親鸞の真意は「帰命は本願招喚の勅命なり」(行巻)というところにある。純粋な南無は人間のどこからも引き出すことはできない。人間に南無があると思うのは、本願にふれない妄想の立場である。われわれは本願によってはじめて南無しうる。本願がわれわれのところで南無と実現する、それがすくいなのである。このように人間の上に帰命がなりたつのは、如来のわれに帰せよという(本願)勅命(よびかけ)によるものであって、帰命・南無いずれも人間にいたりとどいた仏のよびかけをあらわす仏の名号にほかならない。

不可思議光・・・無量光ともいい、同じく阿弥陀仏のこと。阿弥陀仏のはたらきを空間的にあらわしたことば。人間の思議・分別でもってはかることのできない光ということ。「光」は電光とか光線とかの物理的な視覚の対象のことではなく、こころあるものの迷いの闇をはらす仏の智慧のかがやきを象徴する。
(以上、教学研究所編「正信念仏偈」より)